2008,05,21, Wednesday/五代目
三重県の津市から長野峠越えで、忍者で有名な伊賀市(旧上野市)に至る道程・伊賀街道は古くから伊勢参宮街道として知られてきました。
つばや菓子舗のある大山田地区には伊賀8宿のうちの2つである、平松の宿・平田の宿が設けられ、近畿ならびに西国地方からの参宮者、行商人で賑わい、藩士、公卿のみならず庶民らもここで旅の疲れをいやしました。(明治39年まで、つばや菓子舗は平田宿で「つばや」という名前の旅籠でした。)
つばや菓子舗のある大山田地区には伊賀8宿のうちの2つである、平松の宿・平田の宿が設けられ、近畿ならびに西国地方からの参宮者、行商人で賑わい、藩士、公卿のみならず庶民らもここで旅の疲れをいやしました。(明治39年まで、つばや菓子舗は平田宿で「つばや」という名前の旅籠でした。)
正保元年(1644年)には、当時の統治者である藤堂高虎によって初めて街道の改修が行われ、藩政期には津府と伊賀上野との往環の道として領主家臣等に利用されるなど、伊賀と伊勢を結ぶ藤堂藩の重要幹線道路としての役割を果たしていた。
さて、伊賀上野出身の俳聖「松尾芭蕉」は元禄7年(1694年)51歳で没するまでに、故郷の伊賀上野町(現:上野市)への帰路の途中2度大山田地区に立ち寄っている。
1度目に立ち寄った時が「快慶が作った大仏さん」の後半で記載されている新大仏寺に訪れた時のもので、その句は「笈の小文」の中に見ることが出来る。
2度目に訪れたのはそれから1年後の元禄2年(1689年)に、かの有名な「奥の細道」の旅を終え伊勢参宮の後に、郷里の上野へ向かう道中のことでした。
この時、長野越えの峠道で初時雨に震える猿をみつけ、
「初しぐれ 猿も小蓑を ほしげ也」
という閑寂枯水な「さび」の世界を展開した名句を残している。
この句碑は上阿波(かみあわ)地区の長野峠のトンネルの近くに「猿蓑塚」として残されている。
(この句にちなみ私の店つばや菓子舗では、猿蓑もなかを販売しています。)
芭蕉の他にも古今の文人が多くの俳句を残し、古くから街道が愛されてきたことを物語っています。
例えば、幕末の漢学者「梁川星巌(やながわせいがん)」は文政12年(1829年)に冬の長野峠の厳寒を漢詩に読み、また、同年、参宮からの帰り道に母親と共に通った
「頼山陽(らいさんよう)」も詩を残している。 これら文人墨客の往来だけでなく、時宗(じしゅう)を開いた「一遍上人(いっぺんしょうにん)」、幕府の老中「永井尚政(ながいなおまさ)」松下村塾の「吉田松陰(よしだしょういん)」などが通ったことも記録に残っている。
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