2008,07,02, Wednesday/五代目
つばや菓子舗の町内では、毎年7月に祇園祭があります。
この祭りには欠かせない土用餅があります。
その名前は「せえくろ餅」。
この餅は文献こそ現存していないものの、植木神社祇園祭と共に存在してきたようで、伊賀の郷土のお菓子としては最古のもののようです。
せえくろ餅は植木神社氏子が米粉主体で作る郷土菓子です。
(裏シールの製造場所が伊賀市平田が本物の証しです)
せえくろ餅の類似品がスーパーなどで販売されていますのでご注意ください。
夏の暑さも本番を迎え、このあたりでは祇園花と呼ばれている「ノウゼンカズラ」の花が咲く7月の最後の週末、神輿・だんじり・献花・竹幣(ちくへい)花太鼓が往事の面影を残す平田の街道を練り歩く。
これが伊賀を代表する祭りの一つである「植木神社祇園祭」である。
このまつりは伊賀地方の祇園祭の中でも県の無形文化財に指定されている。
まつりの顔ぶれは、豪華絢爛な3基の「だんじり」(大字平田の西町・中町・東町に1基づつ)に毎年、まつり前10日前後練習してきた各町内の子供達が乗りこみ、笛・太鼓・鉦を鳴らしてお囃子を演奏する。
かつては、男子のみ(長男のみ)だけ「だんじり」に乗ることは許されていなかったが、近年の少子化から数年前から女の子も「だんじり」に乗ることが許されるようになった。
それから、ご神体を乗せた黄金色に輝く神輿が2基あり、そのうちの1基は植木神社のある平田地区の若者が代々担ぎ、もう1基は「回り神輿」といわれ、植木神社の氏子地区が1年づつ持ち回りで代々担いできた。
このまつりの神輿は200キログラムの大神輿で、「チョーサヨォー」と言うかけ声とともに16人の担ぎ手によって神輿をなんと垂直に近くなるほどに傾け、右に左へと旋回を繰り返し、1連の動作の最後には神輿を天に向かって放り投げる。
しかも、まっすぐに進まず蛇行しまなら前に進むため担ぎ手にはかなりの体力を要求する。
最近になって「だんじり」・「神輿」は大幅な修復をほどこされ昔の輝きを取り戻しているものの、この「祇園祭」の由来は少なくとも300年から400年以前からあったことは確かなのだが、その起源は諸説入り乱れて伝承されている。
一説によると「スサノオノミコト」が疫病に苦しむ当時の人々に「梅」・「牡丹」を薬として授けたことがこのまつりで使われている献花の始まりだと云われている。
この植木神社祇園祭を彩る献花は、毎年大小10本ずつ準備され、その内訳は昔より上中島地区・下中島地区の各家々から人が出て、大小5本ずつつくるならわしである。
花作りを担当する地区が伝統的に決まっているのならば、作り方も子々孫々と受け継がれている。
上・下中島にはそれぞれ花の大きさや数について記された「虎の巻」があり、それに基づいて和紙や竹を使い一つ一つ手作業で造られている。
この花は前述した通り「スサノオノミコト伝説」に出てくる「牡丹」と「梅」の花で上中島は「白梅」、下中島では「紅梅」と決まっており上中島では、花作りに女性が参加出来るが下中島では花を作るのもまつりに参加するのも男だけという決まりがある。
なかでも「子どもの花」と呼ばれる小さな花飾りは薄い和紙で作られた梅の花がたくさん用いられる手のこんだものである。
また、この花には「こより」が使われるが、一度に何枚も作れる花びらに対して「こより」の方は一つ一つ手で縒らなければならず、手の脂が無くなって「こより」を縒ることが出来なくなったら酒を飲んで手に汗をかかせて続けるそうだ。
諸説入り乱れるこの祭りの由来、貞観11年(896年)に始まったとされる説もあったり、寛弘(1104年)村人が播磨国広峰山より午頭(ごづ)天皇を迎えて蔓延していた疫病の退散を祈ったことに始まるものだとも言われている。
現在では、疫病退散・五穀豊穣祈願の神事として「ぎょんさん」の愛称で呼ばれ、地域内外から注目されている行事となっている。
この祭りには欠かせない土用餅があります。
その名前は「せえくろ餅」。
この餅は文献こそ現存していないものの、植木神社祇園祭と共に存在してきたようで、伊賀の郷土のお菓子としては最古のもののようです。
せえくろ餅は植木神社氏子が米粉主体で作る郷土菓子です。
(裏シールの製造場所が伊賀市平田が本物の証しです)
せえくろ餅の類似品がスーパーなどで販売されていますのでご注意ください。
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