2008,05,20, Tuesday/五代目
大友皇子のお母さんが、つばや菓子舗の近所(東に1km)の出身らしいのです。
伊賀市鳳凰寺(ぼうじ)地区にある真言宗薬師寺境内に現存する鳳凰寺廃寺跡の礎石は実は、日本書紀に登場する。
天智天皇の采女(うねめ)である伊賀宅子娘(いがのやかこのいらつめ)が壬申の乱の後に郷里に帰って建立したのではないかと考えられている。
伊賀宅子娘と天智天皇の間に生まれたのが壬申の乱で悲運の最期を遂げた「大友皇子」である。
この礎石から推測される寺院の規模は現在の鳳凰寺集落一帯におよび白鳳期奈良期の古瓦が出土しているが文献上の資料は残念ながらない。
しかし、大友皇子の冥福を祈って建立されたものだとすれば、礎石を使用する、当時としては大規模な寺院建立も説明がつくのではないだろうか?
さらに、「葛野(かどの)屋敷」・「宇合(うまあい)」などの大友皇子や伊賀采女に関連があるとされる地名からもこの寺院跡地は伊賀采女が建立したと考えられているのは本当かもしれない。
伊賀市鳳凰寺(ぼうじ)地区にある真言宗薬師寺境内に現存する鳳凰寺廃寺跡の礎石は実は、日本書紀に登場する。
天智天皇の采女(うねめ)である伊賀宅子娘(いがのやかこのいらつめ)が壬申の乱の後に郷里に帰って建立したのではないかと考えられている。
伊賀宅子娘と天智天皇の間に生まれたのが壬申の乱で悲運の最期を遂げた「大友皇子」である。
この礎石から推測される寺院の規模は現在の鳳凰寺集落一帯におよび白鳳期奈良期の古瓦が出土しているが文献上の資料は残念ながらない。
しかし、大友皇子の冥福を祈って建立されたものだとすれば、礎石を使用する、当時としては大規模な寺院建立も説明がつくのではないだろうか?
さらに、「葛野(かどの)屋敷」・「宇合(うまあい)」などの大友皇子や伊賀采女に関連があるとされる地名からもこの寺院跡地は伊賀采女が建立したと考えられているのは本当かもしれない。
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